第13回国際洞窟学会議

Speleo Brazil 2001 参加記


7月20日
今朝は良く眠れ、7時半過ぎに起きた。旅行当初からであるが、時差ぼけはほとんどない。朝食は上野先生と一緒になり、UISの会長を始めとした役員が皆交替しそうだと聞いた。会長には3人ほど立候補しているそうだ。
朝会場へ行く途中Efrainと一緒になり日本の洞窟でのサーチ&レスキュー体制について聞かれた。答えた内容は恥しくて言えないが、島根で最近事故があった話をすると、彼の友人で優れたケイブ・インストラクターが、2年前にケイブツーリズム中に洪水で死んだそうで、そのことを悲しんでいた。
会場でやや時間があったので、救助委員会の一つ前のセッションを聞いた。部屋が満員になるほどの人気で、内容は南極の半島部での氷河洞調査の話であった。
その次が洞窟救助委員会のミーティングで9ヶ国(スイス、ブラジル、オーストラリア、日本、スペイン、メキシコ、プエルトリコ、レバノン。フランス)の参加があった。
 各国の現在のレスキュー組織についてのディスカッションであったが主に話される言葉がフランス語でつらい。日本についても語ったけれど、言葉の問題で思うように話せないのがもどかしいが、たいした組織があるわけではないのでかえって良かったのかもしれない。小国であるプエルトリコやレバノンですら、かなりしっかりした組織体制を持っている。もっともケイバー人口密度で言えば日本がもっとも小国とも考えられるのだから、仕方ない面ではある。
昼は会場でビールとツナのから揚げ状のものを食べる。この時、レバノンのファディと同席になり、日本の代議員(Delegate)は誰かと聞いてきた。どうも彼は書記官(Adjoint Secretary)に立候補したので、自分を売り込みたいようであった。彼が言うには、これまでアジアから書記官が選出されたことが無いので、今回是非ともアジアから選出すべきとのことであった。
15時半からは、1999年11月にフランスで起きた事故の講演を聞く。これは洪水によって7人が閉じ込められた事故で、救助に8日間かかっている。延べ130人が投入されたものだ。救助方法が普通ではなく直径40cmの穴を地上から鉱山会社のボーリング機材で掘り(深さ28m)救助している。他にも偵察用の穴をいくつか開けていて、費用は掘るのに150万フラン(3000万円ぐらい)、全体で350万フラン(7千万円ぐらい)かかったそうだ。測量図が古い小さなものしか公表されておらず、詳細な地図がなかったので、詳細な測量を行った人から、図面を入手するための交渉に時間と手間がかかったのが間題になったそうだ。それにしても、これだけ大規模な救助の指揮を取れるSSFの能力はすごい。

17時前頃からはジムカーナがあった。これは8人で3ヶ国以上の男女からなるチームで5つの競技を競うもので計8チームが参加していた。知と技を競うものとのことで、パズル、アート、クイズ、宝探し、SRT・チ口リアンブリッジの5つの種目があった。ジグソーパズルはスペレオブラジルのポスターで、アート部門は洞窟関係の絵を描いてのコンテス卜、クイズはコングレスに関連するさまざまな質問、宝探しは質問に沿って会場内を走り回るというものであった。SRTとチロリアンは見損ったので良く判らない。私はミナス・ジョイラス州のブースでシャベールに捕まり、気がつけばカイシャ(ピンガ)という52度の酒を4杯飲んまされてしまったため、やや記憶があいまいである。
ジムカーナの順位発表のあとはサンバ・ショーがあった。商品にはSRTハーネスなどがあったように思う。サンバは生演奏でなかなか良い。しばらくするとやはり、皆踊りだす。
この日、私は酔っていたこともあり、そうそうに退散したが、小林さんの話によればカポエラというダンスと格闘技が混じったようなものの実演があったそうだ。

7月21日
今朝は昨夜早く寝たこともあり暗い頃に目が覚める。朝食はまた上野先生と食べる。書記官の件で話をしていると当のファディが来たので紹介する。会長や書記官には、言葉と時間とお金の問題がなく、若い人に投票したいと上野先生は言っておられた。
9時からはポーランドのケイビングについての講演を聞いた。1000m級の竪穴の探検史や海外遠征の話があった。
次はファディによる2001年4月の中東洞窟学会議についてとレバノンのスペレオロジーの現状等についての講演である。前者の会議には亀戸ケイビング・クラブの戸田君が参加している。ファディの所属するケイビング・クラブは50年の歴史があるということだ。
午後はブラジル洞窟協会やラテン・アメリカ洞窟連合の総会などのため私には関係がないので自由に過ごす予定であった。
夜はBanquet(懇親会)がステーキハウスであったが、諸般の事情で最初から参加できず、1時間半遅れで行った。既に宴たけなわで完全に出遅れてしまった。ファディやシャベールが中心になって騒いでいた。彼らは宴会が好きなようだ。このあたりの雰囲気は日本の宴会とあまり変わりがない。小林さんは立教校歌を歌っていた。こういったときのために「スキヤキソング」など有名な歌を覚えておくのも良い考えだ。24時にホテル行きの最終のバスがあったので、それで帰ったが、ファディらは、まだディスコで騒ごうとしていたようだ。


7月22日
昨夜遅くまで騒いだので、朝は眠かった。UISの総会が関係無い人は寝坊している人が多かったようだ。9時半に会場に行くと、もう店を閉めて片付を始めている所が多い。
最後に会場をうろつき、一通り最後の物欲を満したあと、12時からの閉会式ヘ行く。
珍しく時間通りに始まったのは、帰りのフライ卜の時間制限がある人が多いせいだろう。
次回2005年の国際洞窟学会議は25対11でグリースのアテネがフランスのポーを下した。2005年夏は皆でエーゲ海の風に当たりたい。フランスのフロランは、かなり悔しそうで、いろいろと文句を言っていた。大会直前まで無投票でフランスに決まりと思われていたところに、突然の立候補でさらわれたせいだろう。
UISの会長にはイタカランビでお世話になったブラジルのJosé Ayrton Labegalini氏に決まった。ファディも書記官に当選した。
13時には予定通り閉会式が終わり皆、記念写真を撮りつつ解散となる。

 午後は初めて市内観光でもしようかと思いテレビ塔に登りに行くが、人の行列に負けて敗退した。明日はポスト・エクスカーションに参加するため、朝7時の飛行機でサン・パウロに向かわなければならないので、TV塔の下の蚤の市を見たり、軽く散歩したりしながら観光したあとブラジリア最後の晩餐を食べ、重い本たちをパッキングして早めに寝た。本は、浦田さんに代理購入を頼まれたこともあり、数が倍増しかなり重い。早く郵送してしまいたいが、明日朝の空港ではできないので、サン・パウロの空港で挑戦しなければならない。今回、私は80-100リットルのアタックザックで行ったが、次回は、巨大なガバーメントケースで行きたいところだ。実際問題、荷物を背負って不整地を歩くことなどないのでほとんど問題がなかった。

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